ワンス・アポン・ア・タイム・イン歌舞伎町
煙の匂いが充満する店内は流行りのレトロ喫茶と呼ぶには程遠く”ただ古くなった”だけの喫茶店。壁はヤニで黄ばみ、カビ臭いソファは破れた箇所から中綿が覗いている。客は定職にはついてなさそうな中年や、もう何年も日光に当たってない夜職の幹部みたいな痩せた男と、駆け出しの売れない女芸人のコンビがネタ合わせをしている。
今は”トー横”で知られる広場を通り過ぎるとたまたま喫茶「L」の看板を見かけたので立ち寄ってみた。当時は確か「tomorrow」と云う店名だったが、看板以外は特に変わってるところは見受けられない。店先の古びたショーウィンドウに飾られたクリームソーダやスパゲティナポリタンの蝋の模型には埃が被り、安いライトがそれを照らしているのも昔のままだ。すっかり当時を思い出して懐かしくなってきたのでアルバイトの女の子にコーヒーを頼んだ。今座ってる窓側の席にはかれこれ25、6年前もよく座っていた。若い頃、セピア色の歌舞伎町年表のようなフォトブックを読んだ事があって、それを撮影した写真家が生き証人のようにこの街を何十年と歩いてきたんだろうな、と思いを馳せた事があるが、今まさにこの喫茶店の窓から見える景色に当時の色褪せない記憶が蘇る。時代の移り変わりを今度は自分が誰かに伝えようとしている。
俺がこの街の住人だった頃の血生臭い激動の90年代とはまるで変わり果ててはいるものの、今も尚、姿形やそこにいる理由を少し変えただけの歌舞伎町の”住人”たちはそのまま存在していた。丁度トー横の辺りは当時はコマ広場やロッテリアがあってcodeと云うClubで朝まで遊んだ若者が始発電車が出るまで酒を飲んで地べたに寝転がってたむろしていたり、流しのギター弾きやホームレスが小銭を握りしめてコマ蕎麦で晩飯を喰らい、殴られ屋が広場でサラリーマンのパンチをひらりとかわしながら日銭を稼いでいた。
あの当時、腹を空かせた俺たちはこの喫茶店に入り浸って電子ポーカーのテーブルゲームの画面に食いつくようにゲームに興じていた。ゲーム機の右横に1000円札を吸い込ませると1000円以上するハンバーグ定食やナポリタン、ポークジンジャーのセットが頼めるからだ。ゲームで遊ぶ客は飯が食べれる。もちろん飯だけが目的じゃないけど腹一杯、毎日のように洋食を食べるなんてシノギのない駆け出しヤクザの俺たちには贅沢だった。常連だった俺たちの誰かが1000円投入すればそのテーブルを囲んでポーカーを見てるだけの関係のないものまで定食を頼む事ができたのは、店主が駆け出しの俺たちにはまだシノギもなく、まともに飯が食えてないと思って気持ちでやってくれていたのだ。
小さなコーヒーカップが目の前に置かれたので先ずは香りを確認する。続いて琥珀色の中身を一口飲んで見ても流石に味までは覚えてない。変わってるのかあの頃のままなのかはわからない味のコーヒーを飲みながらあの時代に少しだけ戻ってみよう。
喫茶店を出て花道通りを風林会館の方へ歩くとホストクラブの看板が囲む角を左に曲がる。愛本店を通り過ぎた小さな曲がり角の雑居ビルには中国人が経営するバーやクラブがたくさんあった。今でこそ、このあたりはホストクラブやコンカフェの店舗がテナントの多くを埋めるが、90年代は中国人や在日華僑、東北、福建省の中国人が歌舞伎町に台頭していて、彼等の経営する飲食店で溢れていた。
まさに映画「不夜城」のような世界に近いものが存在していたけど、流石にあそこまでではない。馳星周原作の不夜城は金城武が主演で映画化されて話題になった。ロングヘアをオールバックにまとめてロングのレザートレンチコートを格好良く着た金城武がただただ格好良かった。ヒロインを演じる山本未来は山本寛斎の娘さんで、この女優が原作の夏美にドンピシャでハマっていた。実際に不夜城の撮影は歌舞伎町で行われていて、金城武演じる劉健一が狙うマフィアのボス「元成貴」が歌舞伎町の入り口付近を若い衆を引き連れて歩いてくる撮影シーンを当時目の前で見たことがある。派手なダブルのスーツに尖った革靴を履いた恰幅のいい男が葉巻を咥えながら歩いてくる。若い衆の1人がボスが雨に濡れないように後ろから傘を差して歩く。いくらなんでもあんな時代錯誤の服装で歩くマフィアは居ないので一目で映画か何かの撮影だとわかる。現実の中国マフィアはもっとそこら辺の貴金属屋やビックカメラで金時計をチラつかせながら買い物してそうな風貌だ。
先ほどの雑居ビルの3階に「G」と云う店があった。揚さんというマスターがやっているカウンターバーで静かな雰囲気の店で、その階下に友人がオーナーを務めるClub「L」があった。週末はそのClubがサイケのイベントをやるので若者が雑居ビルの周辺や至る所に溢れ出す。3階の「G」から出てくる若い男女も良く見かけた。
「あんなとこから出てきたけど」
Clubの常連の後輩に尋ねると
「上で簡単に買えるんすよケタミンが」
後輩は飄々と答えたが俺は驚いた。当時は自分たち日本のヤクザが違法薬物関連の市場を独占してると思っていたからだ。トルエンから覚醒剤まで裏社会の人間を介さなければ歌舞伎町には入ってこないと。そして簡単に許可なしに素人が売買なんてしようものなら大変な目に遭うというのが業界の共通認識となっていた。
後輩に案内してもらって「G」の店内に入るとマスターの揚さんは優しく迎えてくれた。
「あれをください」
後輩が挨拶するようなノリで頼むと、揚さんはカウンターの下からパケを出してきた。濁白の粉末の入った小さなパケを受け取ると後輩は一万円を渡した。
「マスター、これは誰かに話は通してる?」
俺が問うと、揚さんは一瞬顔が強張り、舐めるなよと言わんばかりの顔で頷くものの、答えは返って来なかった。
無駄に問いただしてトラブルに発展しても、万が一筋の人間に話を通していた場合にアヤをつけることになるので、日本語も喋れないようなのでここでは深く聞かないことにした。後輩から渡されたパケの袋を受け取ると中身の粉末を車のキーで掬い出して鼻から少量を吸い込んでみた。鼻の穴の周りを白くしながら咽せるのを我慢して目を閉じると、数秒程で身体に異変が起きる感覚に襲われたので俺は腰掛けていたストゥールから崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
・・なんだこれは!?
自分の脳内がぐにゃりと音を立てながら歪んでいく感覚。まるでムンクの叫びやマーブル模様のように空間が歪んでいくような映像が脳内に映し出された。足はすくみ腰に力が入らない。焦って床に四つん這いのようになりながら懸命にストゥールの柱にしがみついていると少しづつ意識が正常に戻ってきた。
脂汗をべっとりとかいた俺は「水をくれ」とお願いすると、マスターはニヤニヤしながら水を出してくれたので一気に飲み干すと後輩のケツを叩いて「G」を急ぎ足で後にした。あとでケタミンについて調べてみると動物に使われる麻酔とのことで、確かに手術室で局部麻酔が効いてる時や全身麻酔がもうすぐ切れそうな時のあの感覚と似ていた。